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小網代ヨットクラブの歴史 クラブの原点 ![]() (写真:左は1940年ダンケルクの戦いに従事した頃のMackenzie氏、当時35歳。 HMS Venomous艦上にて、右は艦長McBeath氏。 英国HOLYWELL HOUSE PUBLISHING社ウェブサイトより) 深い森に囲まれた小網代の湾奥には干潟が広がり、西に開けた湾口には正面に富士山がのぞめ、その素晴らしい自然環境に魅せられた氏は、早くから小網代を自艇の泊地にと考えておられたとのこと。 横浜には、戦前から英米人を中心としたヨットクラブがあり、軍人・財界人や文化人の別荘があった逗子や葉山にも、当時ヨットが停泊するようになっていました。しかし久里浜か逗子からローカルバスを乗り継いで行く当時の小網代は、陸路では交通の便が乏しく隠れ里のような場所で、ここに目をつけた氏の慧眼が、小網代のヨットの歴史を開くこととなりました。
当時、この33ftの「MUYA」にクルーとして乗船した福永昭氏は、「二直のワッチがきちんと守られ、食事は事前にタイプで打たれたメニューが配られ、ジンバルテーブルに箱膳のようなもので供された。食後には英国海軍伝統のミルクティーが出た」と述懐しています。またMackenzie氏の自宅玄関先に太いロープが下がっているのを見て、「何事かと思って尋ねると、"手の皮が柔くならないよう鍛えるためだ"と言われた」とも。(以上、2016年にクラブ創立60周年を記念して編纂した「小網代ヨット史」(白崎謙太郎著)より) NORC館山レース当日の早朝には、前夜から横浜に停泊していた別の参加艇クルーが歯を磨いていると、「MUYA」デッキでMackenzie氏がバグパイプを吹き始め、出陣の曲であったのか、その勇壮な響きに圧倒されて、歯ブラシをくわえながら整列して聴いた、との逸話も伝わっています。 氏の助言により、間もなく発足したNORC(現JSAFの前身)では組織やルールその他の基礎が全て形作られ、小網代はもとより、鎖国ですっかり海から遠ざけられた日本で、「今日の外洋帆走の健全な発展の方向づけをしてくれた恩人であった」と後に福永氏は述べています。(1970年「NORCだより」第2号より) >ページトップへ |
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小網代フリート誕生![]() 1954年、Mackenzie氏の勧めにより、進駐軍の英米人中心に構成したCCJ (Cruising Club of Japan)を、日本人メンバー中心のNORC (Nippon Ocean Racing Club) に改組する運びとなりました。 この時、横山晃氏、関根久氏らと共に中心メンバーとなったのが、間もなく小網代の初代メンバーとなる福永昭氏、渡邊修治氏です。(NORCは1964年に社団法人日本外洋帆走協会(NORC)に改組し、1999年には日本ヨット協会 (JYA) と統合して、現在の公益財団法人日本セーリング連盟 (JSAF) となっています) ![]() (右上:大島沖を帆走中の「MUYA」、 右下:小網代に係留中の「HURUTAKA」と「WHITE CREST」) 1955年初夏、福永昭氏が渡邊修治氏に設計依頼して建造した「HURUTAKA」(20ft)が進水し、この「小網代ランデブー」真っ最中の賑やかな小網代に回航、係留します。 同年夏、Mackenzie氏クルーの紹介で「HURUTAKA」に試乗したゲイン氏は大いに気に入り、即、渡邊修治氏に自艇の設計を依頼、シーバー氏と共同で「WHITE CREST」(21ft)を建造し、これも同年11月に小網代に係留しました。 わずか3艇ながら、小網代に日米英混合の艇団を結成し、この年がNORCの「小網代フリート」元年となりました。後の「小網代ヨットクラブ」の原型です。 日本では、古くから在日外国人によるヨットクラブが設立されていましたが、日本人の入会が「許可」されたのはいずれも敗戦後かなりを経てからであり、小網代では、当初から国籍を超えて同志が集い、自由闊達な交流が行われるという稀有な幸運を得たことになります。 >ページトップへ |
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共同作業の始まり 1956年には、第1回神子元島レース 第1回初島レースも行われ、日本の歴史的レースが次々誕生して行きます。 1960年までに、いずれも渡邊修治氏設計で久保田氏の「月光」(21ft)、飯島元治氏の「さがみ」(20ft)が続いて小網代に係留。 設計した艇がこぞって小網代に係留したことで、たびたび小網代を訪れていた当の渡邊修治氏も、重油が浮かぶ横須賀から自艇「どんがめ」を緑濃い小網代に回航して係留しました。さらに古屋徳兵衛氏の「ネプチューン」も加わって、小網代の係留艇団は7艇になります。 5月にはチリ津波が日本を襲い、所属艇にも被害を出しますが、係留艇は順調に増え続け、1964年までに計17艇が係留することとなりました。 加入艇が増えたことで、各艇を一定間隔で整列させて係留する必要が生じ、1964年、「サーモン」の富永弘氏の尽力により、大規模な工事が行われました。富永氏は、1950-60年代の日ソ漁業交渉にも日本代表の一員として加わり、当時のイシコフ漁業相とわたりあった人物です。 工事の内容とは、不用になった捕鯨用の太いワイヤーを小網代に持ち込み、係留エリア内の海底に碁盤の目状に張り巡らして、巨大なストックアンカーや陸上の岩場などに固定する、という大工事です。数m間隔のワイヤ交差点をシャックルで留め、各艇はそこから位置決め用のロープを取る計画でした。 特筆すべきは、小網代メンバーはこれらの大工事を、業者に発注することなく、全てメンバー総出の協力作業で完遂したということです。現在も会員総出で行うハーバー整備作業をはじめ、メンバーが一致協力して何事も自力で行うという小網代の伝統は、この体験が出発点となっており、今も我々の最も誇りとするところです。 後にこのワイヤは、すぐにヘドロに埋もれてアクセス不能となってしまうことがわかり、鉄棒の両端にアイを溶接したロッドを大量に作って代替としてみるなど、様々な試行錯誤を経て、一辺2mのコンクリート塊(通称「トーフ」)に共同繋留する現在の方法に落ち着いているものです。 1968年に小網代湾口にシーボニア・マリーナがオープンし、湾口に防波堤が完成すると、それまで冬場に吹く北西の季節風に悩まされていた湾内はかなり波浪が軽減し、テンダーで船に行くのも困難、という状態はなくなって、泊地はより安全となりました。 >ページトップへ |
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外洋レースでの活躍 係留艇が増えた小網代フリートは、初期の外洋ヨットレースに目覚ましい活躍を見せます。 1982年には、湾内に係留中のNORCに所属していない艇も加わって「小網代オーナーズクラブ」と改称し、さらに2006年、オーナーだけでなくクルーメンバーも加入して現在の「小網代ヨットクラブ」に改称しましたが、これらの期間を通して、小網代艇の快進撃が続きます。 以下、2015年に編纂した「小網代ヨットクラブ概史」(大谷正彦編著)より、直接引用して列挙します: -------------------------------- 【小網代艇の活躍】 小網代艇の初期の外洋ヨットレースでの活躍は目覚ましく、<どんがめV、VI、天城><さがみII><サーモンII><竜王丸、竜王、ふじ><モサII、III><飛車角><チルデ><くろしお><波勝><八丈><ケロニアI、II>等が健闘した。1965 年の「香港マニラレース」には、<ふじ>が陳秀雄オーナー、渡邊修治艇長のもと、<ふじ>チームに<どんがめ><さがみ>のメンバーが応援参加する形で、当フリートとして初の海外レースに参戦した。 一方、1964年3 月に学習院大学ヨット部の<翔鶴>(小網代フリート所属艇)が毘沙門沖で遭難し、若い命が失われるという悲しい事故が発生した。 時代は下がって1980 年代には、<一乗>がジャパンカップやミドルボート選手権で大いに気を吐いた。 【小網代カップレース】 1963 年11 月23 日に第1 回小網代カップレースが行われた。 小網代スタート、フィニッシュで大島を時計回りに回航してくる68 海里のレース。毎年、島回りレースの最後のレースとして11 月下旬の厳しい気象条件の中で行われた。第1 回レースは、<さがみII>が優勝し、オーナー飯島元次氏に寺田保之助氏<利根>寄贈の銀杯が授与された。小網代カップレースは、11 月上旬に行われるようになったが、毎年の島回りレースの最後であることに変わりはない。 現在は、小網代ヨットクラブがレース運営を担当し、2015 年で第53 回を数える伝統レースになっている。半世紀にわたって受け継がれてきた銀杯は美しく磨き上げられ、持ち回りで毎年の優勝艇に授与されている。 【小網代フリートレース】 1976 年6 月フリート内の親睦レースとしてクラブレースを始めた。 参加料はダルマウィスキー1 本で、すべて優勝艇に与えられた。帰港後、優勝艇に参加艇が横付け係留して賞品授与と酒盛りが行われた。「ウィスキーレース」と呼ばれたゆえんである。このレースが、後に「小網代フリートレース(KFR)」となった。1979年からスキャンディキャップ(ハンディキャップルール)を採用した。レースは“毎月第三日曜日開催”を続け、2015 年8 月で第480 回を数えている。1982 年に小冊子「小網代フリートレース15 年」を発刊した。 -------------------------------- クラブレースKFRは2017年に500回記念レースを行い、記念誌・データ篇として「KFR500回の航跡」を発行しました。 小網代ヨットクラブは2015年に創立60周年を迎え、翌3月、創立60周年記念パーティーを開催しました。 当日の資料他、クラブの歴史についての各資料が「資料室」に収録されていますので、ご参照ください。 >ページトップへ |
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